「あまから」の根源

宇庭しげさんと村井初枝さんに敬意を表して・・・

「あまから」の根源

昭和40年代前半から50年代、北海道小樽市の国道5号線沿い、ちょうど入船十字街と花園公園の中間あたり花園町へ向かって右側に、「太鼓焼」(関東では今川焼、関西では大判焼)をメインにソフトクリームやクリームぜんざいなど甘味を提供し、太鼓焼はテイクアウトでき勿論店内でも食べられる「松前」という甘味処がありました。当初は「太鼓焼」一つが15円の時代です・・・。

しばらくの間、私の母方の叔母がその店の奥の部屋を間借りしておりました。その部屋へは店内を通って行かねばならず、今では考え難いようなことが普通にあった時代でした。

子供の頃の記憶なので誇張されているかもしれませんが、小ぶりの五右衛門風呂のような大鍋で小豆を煮て大きなヘラでかき混ぜて餡子を自家製造しており、小豆を茹でている匂いと湯気そして大きな砂糖袋・・・ソフトクリームの機械は今の自動販売機のように巨大で、ドォ~ンと店の奥正面に鎮座していました。

中央にある大きなハンドルを左腕で開放し、調節しながら出てくるクリームを少しずつ細め同時に右手に持ったコーンを上手に廻し・・・そしてあの形良いソフトクリームが出来上がる・・・それを眺めて、自分もいつか思いっきりソフトクリームを食べられる身になりたい!と思っていた記憶が今でも鮮明に蘇ります。

「松前」の店主は男勝りの女性で煙草は「朝日」を吸っていました。朝日を吸う人は珍しく、紙巻ですが1本の長さの半分程度にしか草が入ってなくて、半分が空洞部でその筒部を交互に十字に潰して吸うという珍しい煙草でした。

当時の私から見ると厳ついながら優しいおばさんで、名前は宇庭しげさんとおっしゃいました。私が住んでいたのは入船町でしたので、近いこともあって私の母も多忙時には頼まれて手伝いに行ったりしておりましたが、おばさんは身の上を話すことは殆どなかったようです、ただ京都の話をたまにしていたようです。

そういえば「松前」の店頭に出ていた暖簾は白だった記憶があります。大人になって知り得た知識ですが、関東の店の暖簾は藍染つまり紺色ですが、対して関西ののれんは白なのです。ですから「松前」のおばさんは京都方面から北海道の小樽へ渡ったことは間違いのない事実と思われます。余談ですが、白い暖簾を掲げて商売をされている老舗は関西発祥のお店と判断できます。

宇庭しげさんにはまるで姉妹のような友人が居て、村井初枝さんと申します。

当時村井さんは小樽にあった三大デパートの一つ「ニューギンザデパート」(通称ニューギン)の食堂に勤めておられたので「松前」の店には勤務後や休日そして退職後、仲良く二人で切り盛りしていました。

話は変わりますが、当時「プリン」という食べ物は私にとっては憧れのもので、デパートの食堂にはあったのですが、ラーメンやオムライスなどを食べた後でデザートなどたべさせてくれるような家庭環境ではなく、ごくたまに母の機嫌が何故か良い時に食べさせてくれたように記憶しています。しかしそのような機会は稀で殆どはガラスケース越しに蝋見本のプリンをジッと眺めていたと思います。ハウス食品の家庭で手軽に作れる「ハウスプリン」がテレビで宣伝され始める前ではなかったかと思います。

村井初枝さんお手製のプリンを松前の叔母の部屋で見たときは驚きました。店で販売するためではなく内輪のおやつに作ったものでしたが、本物のプリンが家庭でも作れるんだと知って驚きました。

子供心には本物のプリンは家庭で作れるようなものではなく、専門的な環境と器具と知識が必要だからデパートのような所でしか作れない物だと思っていたものが目の前にあったのですから、それは大きな衝撃でした。

当時多くの家庭が競って購入し、後年は家庭の展示物と化していた百科事典が御多分に漏れず我が家にもあり、プリンを調べたところなんとレシピが出ていたのです。

それからというものは、それを頼りに幾度もプリン作りに挑戦し試行錯誤しましたが、なかなか上手くできませんでした。蒸すレシピだったのですが今思えば温度が高すぎで気泡ができてしまい、何度作っても舌触りが悪くて美味しくありませんでした。

そうです!私のプリン作りへの情熱は小学生時代に芽生えてから半世紀を経過してもなお衰えず、この「あまから」でソフトクリームとともに開花しています・・・
第二の人生にこの道を選んだ根源は真にここにあるのでしょう。

ありがとう宇庭しげさん、村井初枝さん。

(しげさんは既に故人となり、初枝さんはH28.11月現在93歳で札幌市内の老人ホームにて暮らしておられます)